「美術評論家は絶滅危惧種だ」と言われて久しい。が、かつては美術評論家が美術界をリードした時代があった。1950~1960年代、美術評論家は欧米で次々に登場する美術の新思潮を紹介する他、主要新聞で美術評を担当し同時代の美術を広く社会に伝えた。また、コンクールの審査員や展覧会企画を通して新人美術家の発掘を担い、美術館の館長や国際展のコミッショナーとして、美術家たちを次なるステージへと押し上げた。当時の美術評論家は、美術家を世に出す主導的役割を果たしたわけだ。そして時を経て、美術市場や美術館等の体制が整うに従って、その役割は美術商や学芸員に移る。

瀧口修造《無題》1968年石橋財団アーティゾン美術館蔵
瀧口修造(1903~1979年)もそんな戦後の美術評論家を代表する一人だ。昭和初期にシュルレアリスムの影響を受け詩人としてキャリアをスタート。間もなく美術にも関わり、西欧のシュルレアリスム美術の紹介やそれに傾倒した前衛美術家の批評活動を始める。戦時中はそれが危険思想だとして逮捕、転向を余儀なくされた。そして、戦後は読売新聞の美術評を担当し、読売アンデパンダン展で登場した若手美術家を精力的に取り上げると共に、神田・タケミヤ画廊の展覧会企画を担い、新鋭美術家の紹介につとめた。こうして前衛志向の美術家たちから慕われた瀧口だったが、1960年代に至り、マス媒体での批評やコンクールの審査員から遠ざかり、自らシュルレアリスムの手法による絵画制作に没頭していく。
今回展示されているのは、そうした作品群に瀧口が批評した内外の美術家の作品、さらに...
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